A leaf in a bottle

とある精神疾患者の日常

消えた夢

私には少し前まで夢がありました。それは、いつか諦めるときがくると思いながらも、なかなか捨てられなかった夢。その夢とは、「心の専門家になる」というものです。具体的に言うと、臨床心理士になるのが私の夢でした。

昔から人の気持ちに対して意識することがかなり多かったですし、心の専門家として誰かの助けになることを密かに夢見ていました。そのために通信制大学に通うとか大学院に進む道なんかも、頭の片隅にあったのですが。

今現在は、その夢を諦めようと思っています。その理由は、ただひとつ。アウティングにさらされたとき、私は自分が崩れていくのを止められないからです。

私の家の近所の子どもは私が性倒錯者だということを知っています。たまたま道でばったり会おうものなら、全力で走って逃げていきます。

中でも一番つらいのが、その子どもたちが、私のことを知らない子どもたちに面白半分にアウティングしていくこと。ときには私の家まで来て、「ここの家の人さあ、……」と知らない子どもをわざわざ連れてきて、私の性倒錯をバラしていきます。

その子どもたちが家の近くにいるせいか、まともにその会話が聞こえてきて、何も言えずに身体が固まって動けなかったことがありました。

何で生きてきてしまったんだろう。私は私が存在することを、その侮辱の言葉から守れませんでした。

私が臨床心理士を諦めたのは、何かでアウティングが起こった場合、それでなくても性倒錯がなかなか隠せない私は、きっと粉々に打ち砕かれてしまって、クライエント(相談依頼者)のことを考えるどころではなくなってしまう。そう思い知ったからです。

私の性倒錯を知った人の侮蔑の顔を思い浮かべると、とても恐ろしいし、とても平気ではいられない。私はアウティングされないように隠れて生きるしかないんだ。そんな風に思いました。

心の専門家になりたいというのは、あるいは今カウンセリングをしてくれている臨床心理士の先生に陽性転移(好意感情を持った、というか、同化願望があったというべきか)したせいかもしれません。

今となっては分かりませんが、違うと自信を持って断言することはできませんでした。臨床心理士になることで、自分の傷を癒そうとしてはいけないし、自分の役割をそれで手に入れてもいけない。

職業倫理を考えるというような全くの畑違いの行為にまで及んでいたのは、悲観することで自分の境遇を慰めたかったからかもしれません。

もしこの夢に無理やりにでも突き進んでいたら、私はどうなっていたでしょうか。大学の費用を稼ぐために目標を持って前向きに社会に出られたのか。居場所を失いたくなくてずっと作業所をやめられない私には、そんなことがありえたような気がしません。

性倒錯を公表している臨床心理士精神科医がいるかもしれませんが、オープンにして侮蔑されても自分を保つためには何が必要なのか、私には想像もつきません。

最近「Xジェンダー」という概念を知って自分もそうかもしれないと思い始めました。せめて私は私を助けられたら。

それでも、自分で取り下げた夢の穴は、決して小さくはありませんでした。

居場所をなくしたら

今の作業所に通い始めてから今月で10年経ちました。通い始めた当初から人間関係やその他のことが全てうまくいったということはなく、人間関係も、通い始めて間もなくは全く築くことができませんでした。

従来の人見知りに加え、周囲と壁を作る自分の性質が悪影響を及ぼしたことは今でも容易に想像がつきます。T秀という人が話しかけてくれて、そこから次第に話す人ができるようになっても、他者への悲観的な見方はあまり変わりませんでした。

当時の日記を見るとそれがよく分かります。あの人に嫌われているとか怒らせたとか、些細なことでもネガティブにとらえて悪いほうにばかり考えてしまう。そんなことが稚拙な心理分析とともに書かれていました。恥ずかしくて読む気がしません。

今では人間関係で苦労した当時のことなど、あまりよく覚えていませんが。それはただ単に忘れているだけなのだと思います。うまくいったのは、そういう環境があったから。迎え入れてくれた場所と、通所者の人と。

私自身は作業所に通い始めた頃と、ほとんど何も変わっていません。なので新しいところに身を移すことになったとき、私は人間関係の冷たさに参ってしまうと思います。それが分かるので、今の作業所を去ることができないでいます。

少し前のことです。一番新しく来たメンバーがA型施設へと移っていきました。B型を卒業したのです。最低賃金がもらえるA型に移ることで、おそらくその人は今より格段に高い給料を手にするでしょう。

でも私はうらやましいと思いつつ、動く気にはなれませんでした。

先日のこと。私は珍しく作業所の職員を言葉で非難しました。ある事情でメンバーの女性が提案したことを門前払いした女性常勤スタッフのK道に、それはおかしいでしょと食ってかかったのです。

それはそれですみましたが。よりにもよってそのメンバーの女性は、一番聞く耳を持たない施設長にその話をしていました。予想通り激しい非難を浴びていました。施設長は話がまとまってない人とは話ができないとか、その女性の欠点を厳しくあげつらい、その人の意見をたたきつぶしました。

単に備品を別のものにしてはどうかという提案だったのに。

こういうところにはいたくないな。正直、そのときは心からそう思いました。障がいを持った人に理路整然とまとめて話せ、できなければ聞けないなどと。どうしてそういう精神的虐待みたいなことしかできないのだろう。

でも。すっかり忘れていましたが、私には社会に出る場所などありません。居場所はこの作業所だけなのです。もちろん、他にも作業所はありますが。そこでも同じように誰かと仲良くなれるとは限りません。

この施設長は市の偉い人に糾弾されるべきだと思います。メンバーのことを考えているようで、実質、健常者の理屈を暴力のように振りかざす、こういう人は、同じように誰かに厳しく追及されればいい。

居場所が他にない私は、そこで口を閉ざしました。怒りはずっと胸の内にあります。作業所を出ていく日までまだまだかかりそうです。

挨拶が苦手

 挨拶が苦手です。近所の人ともあまり挨拶をしません。挨拶をしてきた人には挨拶をしますが、基本的に自分から挨拶することはほとんどありません。そのせいか、特定の人を除いてはほとんど誰も挨拶してきませんし、大方無視して家の中に入ったり出かけたりしてその場を去っていきます。

作業所ではどうかと言うと、入った当初は挨拶しませんでした。自分からおはようございますと声をかけていくのが苦痛で、そんなことをするぐらいなら挨拶しないほうがよっぽどマシと思っていました。

施設長Hは、一般の社会でも挨拶は基本だと言い切ります。好き嫌いに関わらず、社会の中では挨拶すべきだという論理です。もちろんいやでした。したくなかったし、挨拶したくない人はいたらいけないのかと腹立たしく思ってもいました。

今は一応作業所の玄関先で声を上げておはようございますと言います。それは、挨拶すべきだという慣習に従ったというよりは、相手に挨拶されてからじゃないとこちらから挨拶しないのは、高慢で偉そうに思われるのではないかという不安からでした。

この、朝のおはようございますと言っておはようございますと挨拶をする、この一連のルーティンワークは何とかならないかと今でも思います。何だか自分から仲良くしてねとごまを擦ってふれ込んで回るような感じ。我慢して耐えるのがつらいです。

でも、こんな風に挨拶が苦手なせいか、人に距離を置かれることはしばしば。私が今いる作業所をやめた元メンバーでさえ、私を見たら道を変えたり無視して遠ざかる人が何人かいます。そういえば地域活動支援センターでもこういう人が何人か。

何か嫌がることをしたというわけでもないと思います。単純に出会ったときの雰囲気の悪さで、近づきたくない人とか、会いたくない人とか、そういった方向に分類されることが多いようです。

私もわざわざ好かれようと心を開いて声をかけに行くことなんてしないので、どんどん距離は開いていき、やがては顔を見かけただけで嫌がられます。

前にも書きましたが、私には心理学の基本的信頼感と呼ぶものがあまりありません。他人は自分のことを悪く思っているという猜疑心が前提なので、他人に心を開く前に疑ってかかってしまいます。

逃げられることは仕方がないことだと諦めています。こちらも出会ってあまり嬉しいと思わないので、そういった雰囲気も向こうに伝わって空気は最悪になります。

私は人に好かれない、というのはほぼ真実となっています。

じゃあ挨拶もしないし人に嫌われるのなら、友達もしゃべる人もいなくて寂しいね。と思いきや。世の中にはこういった「壁を作った人」の壁を苦もなく乗り越えてくる人がいて。毎日ほとんど必ず話しかけてくる人、相手をしてくれる人というのがいて。

おかげで作業所では孤独にならずにすんでいます。まあ孤独でもひとりでいられるので別に構いませんけど。こういった人のおかげで人生が豊かになったのは確か。作業所の中だけですけどね。

ありがたいことです。

デザイン変えました

エアメールというテンプレート(だったかな?)を使ってみました。

幅が広いので2段組みにしましたが、下までいってスクロールして戻ってこないと読めない妙な仕様になってしまいました。

それぞれの段落ごとに段組みにしてみたりもしましたが、どうやってもなんか妙な具合なので。諦めてこういう風にしました。

よいゴールデンウィークをお過ごしください。

処罰感情

前回は「告白」という湊かなえ原作の映画のことを書きました。あれも一応自分の正直な気持ちですが。今回はそれと矛盾することを書きます。

映画の内容について、私は精神を追い詰める人は残虐だと書きました。人に苦痛を与えることは、それ自体悪のような気がしていたからです。でも、これにも抜け道が存在することに最近ようやく気付きました。

悪いことをする人は、罰を受けるべきだという気持ちが心の中に確かにあるのです。政治的なことで言うなら、北朝鮮金正恩は死んだらいいのにと思いますし、ジャーナリストを暗殺させた疑いのあるプーチンなどは同じように殺されればいいと思います。

もっと身近なところでは、例えば犯罪を犯した人が厳重に処罰されるのは当然のことだと思います。そうでなければ怒りますし、声を上げて批判したくなります。Twitterなどで悪いことをしている人へのバッシングが上がるのは日常茶飯事ですし。

例えば無茶な運転をしている車に衝突されてそのまま逃げられたら。何の関係もないのにナイフで刺されたら。ただ通りすがっただけで金品を奪われたりしたら。

相手にも事情があったんだよねとはほとんど考えません。その人の事情なんか他の人には関係がないし、謝ってすまされるぐらいなら、同じぐらいひどい目に合わせてやりたいしそうなるべきだとも思います。

でも、その処罰感情が行き過ぎるとどうなるか。例えば金正恩が捕らえられ、ネットで公開銃殺刑になったとしたらどうでしょうか。悲鳴や怒号の上がる暴力のむごいシーンを目の当たりにして、本当にそうなるべきだと言えるでしょうか。

告白という映画に戻ると、処罰感情が絶対に正しいなら、復讐も正しいことになります。娘を理不尽に奪われたのですから、相手の少年を追い詰めて殺すことも正しいということになります。

そう思うと、罰せられるべきという感情と、実際の罰とはどのぐらいのバランスを持つべきなのか。考えるほど分からなくなってきました。

死んだらいいのにとよく思ったりしますが、実際にその人の命が消えようとしている場面に遭遇して、さあ死ねすぐ死ねとけしかけるようなことはとてもできそうにありません。命を消す残虐さに震えるだけです。

ただ、でも罰を逃れて平然としている人はいるわけで。その人たちは何の痛みも感じなくていいのかと思うと、ひどい目にあったってその人が悪いんでしょと思いたくもなります。

結論は──とても出ません。分かりません。

正義感からか、ニュースで悪いことをしている人を見るとカッと頭に血が上ります。傍から見ているだけなので、ケシカランと言って憤慨していても何も問題ありませんが。

当事者になったとき、処罰感情が暴走して相手を無情なまでに追い詰めるのか、それとも相手の人間性を尊重して空しく諦めようとするのか。本当に難しいことだと思います。

私も「他人を精神的に追い詰める残虐な人」の一人。罰したい気持ちがあらゆる面で一線を越えないことを祈るばかりです。

手のひらを反すように

最近頭にくる出来事がありました。M哲という人が私の名前を出して文句を言っていたこと。一応経緯を書いてみます。

私が通う作業所では調理の授産があります。そこでのミーティングのこと。豚肉を切って小分けにして冷凍するときにラップで巻くのですが、豚肉を切った人は生の肉を触った手でラップの箱をつかむことが多く、私が担当する生で食べるものを扱うほうもそのラップを使うため、衛生的に怖いという問題提起をしました。

それに対して責任者は、そもそも豚肉を触る人が他の物を触るのがよくないという風に言い始め、豚肉を素手で一枚一枚触るM哲に対してその責任者が手を洗うように指示をしました。

ところが。調理を終えたM哲に責任者が手を洗うように指示をすると、私(月村)の分だけ分けといたらいいんじゃないの、とか、僕にやるなって言ってるのか、とか、憤慨したように文句をつけ始めたのです。

豚肉のことで今まで注意されたことがないと、しばらく責任者と口論し、私が偉そうに言うということまで言い始めました。その時点で責任者との会話は丸聞こえでしたから、私のほうも妙な言いがかりをつけられて頭がカッとなりました。

どうもM哲は、豚肉のラップを同じにするのは危ないのではないかという私の意見を、自分への批判ととらえて解釈したようです。ミーティングでの話の内容が理解できなかったのでしょう。知的障がいがあることもあり、話の内容が漠然と分からないまま責任者に手を洗うよう指示されたことで、私がM哲が手を洗っていないと言っているのだと受け取ったようです。

繰り返しますが、私は豚肉のばい菌がついたラップが生ものを扱う私のところに影響するのは困るという風に言っただけです。M哲のことに関して発言したのは責任者のスタッフです。

でも私はM哲によって悪者にされ、偉そうに意見すると思われました。M哲は責任者のスタッフにしばらく諭されているようでしたが、その後謝ってくることはありませんでした。

勘違いしたなら仕方がありません。それが彼の障がいです。でも、勘違いのままこちらを一方的に貶め、その後ずっと無視され続けています。スタッフが説明しても理解していません。スタッフはM哲が理解したようだと勘違いしていますが。

私はM哲と同じように彼を無視することに決めました。普段はしつこくからんでくるのに、何か事があったらまるで手のひらを反(かえ)すような態度で腹が立ちます。前々からこういうところが嫌でしたが、今度という今度は愛想が尽きました。

漢字が書けないときに代筆したりとか、分からないことを調べたりとか、いろいろやってあげたことがあります。でも、こういう形で踏みにじってくるなら二度と何もするまい。なんかそんな風に思います。

M哲のことはスタッフに丸投げして、接点を持たないことがお互いにとって一番いいかもしれません。

告白という映画

先日NHK-BSプレミアムで「告白」という映画を見ました。湊かなえの小説が原作で、松たか子が主演の映画です。湊かなえはメディア等の評判で結構怖いという話を聞いていたので、見るかどうかためらいましたが、結局最後まで見てしまいました。

感想を端的に書くと、「全員むごい」です。自分たちの勝手な主義・主張のために、罪もない子を手にかけた生徒2人。自分の子供の悪い部分を見ることを拒否し、我が子を刺した母親、執拗ないじめを繰り返したクラスの生徒たち、何の事情も知らずに勝手な理想論で自己満足に走った教師、その教師に責任を全てなすりつけた女子生徒。

そして、我が子を殺された復習に家庭や人間関係を崩壊に追い込み、憎しみ合うように他人を操作した女性教師──松たか子さんが演じた森口という女性教師のことです。

全てがドス黒い雰囲気に憑りつかれていたような、救いのない物語でした。もちろん、冷静に考えると、ここまでの惨状が繰り広げられるというのはおかしな話で、松たか子さんも警察に捕まりそうなものなのですが。

物語の雰囲気が、全て順調に運んでしまったということを違和感のないように感じさせてしまいます。

私がこの物語で見たのは、「子どもの残虐性や、表に出てこない悪意を、まるで見ようとしない大人たち」でした。森口という女性教師の娘を殺害した生徒2人の残虐さ悪意に、教師や親は誰も気が付きませんでした。

途中で森口の子どもを殺害した生徒2人は、それぞれ近しい関係の人を1人、殺害しています。

この映画では少年法によって守られるということに対してかなり鋭い皮肉を込めて描かれています。反省の作文を書けばそれですんでしまうと劇中のセリフがあります。一度本人が地獄に落ちてからが本当の更生だ、という風にも感じる強烈なラストに、何がいいのか悪いのか、複雑な気持ちになりました。

気持ちは何だか分かりそうな気がします。自分の子どもを殺されたら、怒らないわけにはいきません。でも、他人に精神的に強烈な恐怖や圧迫を与えることは、じゃあ許されるのかと考えると、そうだとは私には簡単に言えません。

家庭を崩壊させて親が子を、子が親を包丁で刺すような状態を作ったり、クラスの生徒がいじめをするような状態を作ったり。血が飛び散るような凄惨な光景を目の当たりにすると、一番むごいのは森口だと思えてなりません。

ついでに言うと、森口は直接関係ない教師を操作して、彼の教師人生を再生することもできないほど粉々に叩き壊しました。無関係な人間を巻き込んだわけです。少年が作った爆弾を母親のところに移動させたりもしました。彼女の復讐のために。

心を追い詰めることを意図的にする人間は、とても残虐な人だ。精神的に追い詰められたことのある私は、そう感じます。

あるいは森口自身も誰かによって止められなければいけなかったかもしれない。そこには、狂気に取り込まれた、精神を病んだ姿が垣間見られます。