A leaf in a bottle

とある精神疾患者の日常

A型探しはどこへいく

施設長や常勤スタッフがすっかり嫌になってからしばらく経ちます。あれから作業所を移ろうかと思って、地域活動支援センター(地活と略)のケースワーカーさんに相談をしています。

私の場合、いろいろと以前に書いた通り、経済的な困窮が現実問題として常に横たわっていて、今の作業所では全然暮らしが楽にはならないことは分かっていたのですが、居場所を捨てる勇気がなかったのでズルズルと先延ばしにしていました。

今作業所を変わるとしたら、A型しかないと思っています。少なくとも最低賃金が出るため、今よりはるかに収入が増えるのは確かです。

ただ、内職は今の作業所でかなりやってきたので、A型でも内職を続けるかと言われたらやっぱり違うのがいいというのが正直なところでした。ケースワーカーの方に条件として、パソコンを使う仕事がいいという風に伝えました。

パソコンを使う作業はそんなに嫌ではないし、むしろそのほうが自分の望んでいる仕事に近いと思ったので、第一条件として考えてもらうことにしました。

結論から言うと、ダメでした。ケースワーカーの方は別に難しいとは言わなかったのですが、どんな事業所があるかハローワークに聞きに行くと、市内にはありませんと断言されました。

私は仕事内容にデータ入力と書いてありましたよと、そのA型施設のホームページを見たことを伝えたのですが、ないと思ってくださいときっぱりと言われてしまいました。

詳しく聞くと、そういった仕事はほとんど入ってこないのが現状なのだそうで。ほとんどが内職などの軽作業で成り立っていて、いざ登録すると話が違うということになると説明されました。

障がい者施設にデータの入力を依頼する企業や団体なんてあまりないんでしょうか。入ってきたとしてもその入力作業を全員でできるほど量がないのかもしれません。

都道府県の中心部くらいになるとありますが、と一件紹介されましたが、そこは電車でかなり距離がありましたし、交通費は5千円までで給料を前倒しで使うことになるのは目に見えていました。

帰ってきて何だか落ち込みました。データ入力とか事務なんかがすぐできるかといえばそうではないらしいということを、今回初めて知りました。仕事をするにしても、まず仕事を施設が受けてこないといけないんですね。

そういったことは全然考えてませんでした。ただやってきた仕事をこなしてお金がもらえるのかなと。東京ならいざ知らず、地方ではこんなものでしょうか。

A型施設探しが暗礁に乗り上げてきました。一件は新しい施設で求人が出ていましたが、話を聞いた後では登録して紹介してもらう気にはなれませんでした。多分そこもデータ入力なんかはほとんどなく、内職をすることになるのかもしれません。

ケースワーカーの人にはまだ言ってないので今後どうするかはまだ未定のまま。どうして動こうとすると、こう悪いほうに行っちゃうんだろう。

何でもすんなりいかないのが悔しいです。

パワハラ

最近非常勤の女性スタッフUと話していて、施設長たち常勤スタッフのことを聞く機会がありました。以前から常勤スタッフの感心しない話はちらほらと聞いたものでしたが。

一つ目は、Uが減給されたこと。ある内職の最後の仕上げはスタッフがすることになっているのですが、それに関してミスが目立つということで給料が減らされるとのことでした。

彼女自身はそういう理由で減給になるとは思わなかったようです。まるで見せしめのように給料を減らされたということに対して納得がいかないようでした。私もやりすぎだと思いました。失敗しているなら口で注意すべきことですし。

同じ職場で働く仲間という意識がないみたいです。スタッフは自分の管理下にあるという意識が強い印象でした。まあ確かに、納品するのは一応商品ですし、それに対する責任は負わなければならないものですが。

こういう人と働くのはごめんだ、と私は思いました。

二つ目は、スタッフのミーティングの際、やたら年齢が高いのを強調されること。冗談なのか笑いをとる目的なのかは分かりませんが、高齢だからと繰り返されるので嫌な気分になったそうです。

どこかの教育委員会の言葉を思い出しました。いじめだとは思わなかったといった主旨の発言。受け取る側がいじめだと思えばいじめであると国が指導しているのに。Uは子どもではありませんが、施設長に対して満足に発言できない立場上の上下関係の中でこういったことを言われています。

私は立派なパワハラだと思っています。相手が嫌がることを施設長自らがしているあたり、こういったストレス加害者であることについて極めて鈍感なんでしょう。この歳になるとどこも雇ってくれないからと我慢しているUが気の毒でした。

どうして上司ってこういうことに疎(うと)いんでしょうか。医療福祉関係のスタッフならば決してやらないことなのに。一般の人が立ち上げたようなところでは、こういったことに対して対策がざるみたいで全く考えられていないのが驚きです。

なかなか仕事が見つからないような現在、会社を辞めたくても辞められない人がたくさんいるんだろうなと思います。Uも多分この作業所である程度の年齢まで働くつもりでしょうけど。もし選択肢があるなら、迷わずやめていると思います。

こういったときに、誰か救済に入ってくれる人がいればいいのに。もしそういった機関があれば、前の施設長が特定の女性メンバーに肩入れする性的虐待をせずにすむでしょうし、今の施設長にパワハラはやめなさいと注意もしてくれるでしょう。

下にいる人が我慢するような環境はよくないと、そう思えないような人間が福祉なんかに携わらないでほしいと強く願うのに。私もUを助けてあげられるだけの権限も権力もありません。

都道府県に報告しても、事情聴取とかで余計Uの立場が悪くなるでしょう。施設長に怒りが湧きますが、Uのためにも黙っているしかなさそうです。

心のシグナル

普段から障がい者として作業所で過ごしている私ですが、作業所の人の大半は統合失調症という病気で、でもそのほとんどの人が薬で割と安定しています。ただ、そんな彼等を見ていても、ちょっと異常じゃないかと思う人がたまにいます。

以前にも少し書いたことがありますが、解離という症状を持った人です。病気の詳しいことはよく知りませんが、外から見ていると、やはり精神的に異常だという印象を持たれてしまいます。

私の家族にもこの解離の症状を持った人がいます。以前「退行」という記事で書いたことがありますが、姉です。姉は退行という状態が出てきますが、その他に、この解離という症状も出てきます。

一番強烈なエピソードが、母と出かけた際、バスの中で笑い始め、何やらおかしなことを言った挙句、その話を本人が後で聞いても覚えていないというもの。わざとやっているのではと再三疑ったものでした。

解離という症状があることを知るまでは。

幼児化したりする退行はまだ自分の言動を自分で覚えているものですが。解離は自分の言動自体が記憶になく、自分の意識と離れたところで起こっているようです。

こういう人がもし近くにいるとしたら。私は迷わず精神科を受診するように勧めます。もし放っておいたら、症状がもっと進んでしまうかもしれない、と思うからです。

解離は心の危険を知らせるシグナルだと思います。解離の状態になるということは、心が何か耐えがたいつらさを抱えていて限界寸前なのではないでしょうか。こういうときには理屈抜きで、信頼できる人を見つけてゆだねることが必要だと思います。

解離の人の症状が出るときは、心のシャッターが下りてしまっていて、意識が現実をキャッチしなくてすむように守っているのかもしれません。解離は耐えがたい現実から逃避する最終手段のような気がします。

姉はその後どうなったのか分かりません。結婚して家庭を持っていて、その情報はあまり私の耳には入ってきません。ただ、今でも心療内科に通っているという話は聞きました。否が応でも、精神療法的なアプローチは必要だと思われます。

自分の意識を手放すことがどういうことなのか、私には恐ろしすぎて想像もしたくありませんが。それをしてしまうということは、それだけ心が悲鳴を上げているサインなのだと思います。

こういうときには下手に現実と直面するようなことはしないほうがいいでしょうね。そして思い切り自分のことを話せる主治医を見つけることが回復への糸口になると思います。

自分自身を、大切にするために。

──それにしても、姉の耐えがたい現実って一体何だったんだろう。それは今でも謎のまま。

消えた夢

私には少し前まで夢がありました。それは、いつか諦めるときがくると思いながらも、なかなか捨てられなかった夢。その夢とは、「心の専門家になる」というものです。具体的に言うと、臨床心理士になるのが私の夢でした。

昔から人の気持ちに対して意識することがかなり多かったですし、心の専門家として誰かの助けになることを密かに夢見ていました。そのために通信制大学に通うとか大学院に進む道なんかも、頭の片隅にあったのですが。

今現在は、その夢を諦めようと思っています。その理由は、ただひとつ。アウティングにさらされたとき、私は自分が崩れていくのを止められないからです。

私の家の近所の子どもは私が性倒錯者だということを知っています。たまたま道でばったり会おうものなら、全力で走って逃げていきます。

中でも一番つらいのが、その子どもたちが、私のことを知らない子どもたちに面白半分にアウティングしていくこと。ときには私の家まで来て、「ここの家の人さあ、……」と知らない子どもをわざわざ連れてきて、私の性倒錯をバラしていきます。

その子どもたちが家の近くにいるせいか、まともにその会話が聞こえてきて、何も言えずに身体が固まって動けなかったことがありました。

何で生きてきてしまったんだろう。私は私が存在することを、その侮辱の言葉から守れませんでした。

私が臨床心理士を諦めたのは、何かでアウティングが起こった場合、それでなくても性倒錯がなかなか隠せない私は、きっと粉々に打ち砕かれてしまって、クライエント(相談依頼者)のことを考えるどころではなくなってしまう。そう思い知ったからです。

私の性倒錯を知った人の侮蔑の顔を思い浮かべると、とても恐ろしいし、とても平気ではいられない。私はアウティングされないように隠れて生きるしかないんだ。そんな風に思いました。

心の専門家になりたいというのは、あるいは今カウンセリングをしてくれている臨床心理士の先生に陽性転移(好意感情を持った、というか、同化願望があったというべきか)したせいかもしれません。

今となっては分かりませんが、違うと自信を持って断言することはできませんでした。臨床心理士になることで、自分の傷を癒そうとしてはいけないし、自分の役割をそれで手に入れてもいけない。

職業倫理を考えるというような全くの畑違いの行為にまで及んでいたのは、悲観することで自分の境遇を慰めたかったからかもしれません。

もしこの夢に無理やりにでも突き進んでいたら、私はどうなっていたでしょうか。大学の費用を稼ぐために目標を持って前向きに社会に出られたのか。居場所を失いたくなくてずっと作業所をやめられない私には、そんなことがありえたような気がしません。

性倒錯を公表している臨床心理士精神科医がいるかもしれませんが、オープンにして侮蔑されても自分を保つためには何が必要なのか、私には想像もつきません。

最近「Xジェンダー」という概念を知って自分もそうかもしれないと思い始めました。せめて私は私を助けられたら。

それでも、自分で取り下げた夢の穴は、決して小さくはありませんでした。

居場所をなくしたら

今の作業所に通い始めてから今月で10年経ちました。通い始めた当初から人間関係やその他のことが全てうまくいったということはなく、人間関係も、通い始めて間もなくは全く築くことができませんでした。

従来の人見知りに加え、周囲と壁を作る自分の性質が悪影響を及ぼしたことは今でも容易に想像がつきます。T秀という人が話しかけてくれて、そこから次第に話す人ができるようになっても、他者への悲観的な見方はあまり変わりませんでした。

当時の日記を見るとそれがよく分かります。あの人に嫌われているとか怒らせたとか、些細なことでもネガティブにとらえて悪いほうにばかり考えてしまう。そんなことが稚拙な心理分析とともに書かれていました。恥ずかしくて読む気がしません。

今では人間関係で苦労した当時のことなど、あまりよく覚えていませんが。それはただ単に忘れているだけなのだと思います。うまくいったのは、そういう環境があったから。迎え入れてくれた場所と、通所者の人と。

私自身は作業所に通い始めた頃と、ほとんど何も変わっていません。なので新しいところに身を移すことになったとき、私は人間関係の冷たさに参ってしまうと思います。それが分かるので、今の作業所を去ることができないでいます。

少し前のことです。一番新しく来たメンバーがA型施設へと移っていきました。B型を卒業したのです。最低賃金がもらえるA型に移ることで、おそらくその人は今より格段に高い給料を手にするでしょう。

でも私はうらやましいと思いつつ、動く気にはなれませんでした。

先日のこと。私は珍しく作業所の職員を言葉で非難しました。ある事情でメンバーの女性が提案したことを門前払いした女性常勤スタッフのK道に、それはおかしいでしょと食ってかかったのです。

それはそれですみましたが。よりにもよってそのメンバーの女性は、一番聞く耳を持たない施設長にその話をしていました。予想通り激しい非難を浴びていました。施設長は話がまとまってない人とは話ができないとか、その女性の欠点を厳しくあげつらい、その人の意見をたたきつぶしました。

単に備品を別のものにしてはどうかという提案だったのに。

こういうところにはいたくないな。正直、そのときは心からそう思いました。障がいを持った人に理路整然とまとめて話せ、できなければ聞けないなどと。どうしてそういう精神的虐待みたいなことしかできないのだろう。

でも。すっかり忘れていましたが、私には社会に出る場所などありません。居場所はこの作業所だけなのです。もちろん、他にも作業所はありますが。そこでも同じように誰かと仲良くなれるとは限りません。

この施設長は市の偉い人に糾弾されるべきだと思います。メンバーのことを考えているようで、実質、健常者の理屈を暴力のように振りかざす、こういう人は、同じように誰かに厳しく追及されればいい。

居場所が他にない私は、そこで口を閉ざしました。怒りはずっと胸の内にあります。作業所を出ていく日までまだまだかかりそうです。

挨拶が苦手

 挨拶が苦手です。近所の人ともあまり挨拶をしません。挨拶をしてきた人には挨拶をしますが、基本的に自分から挨拶することはほとんどありません。そのせいか、特定の人を除いてはほとんど誰も挨拶してきませんし、大方無視して家の中に入ったり出かけたりしてその場を去っていきます。

作業所ではどうかと言うと、入った当初は挨拶しませんでした。自分からおはようございますと声をかけていくのが苦痛で、そんなことをするぐらいなら挨拶しないほうがよっぽどマシと思っていました。

施設長Hは、一般の社会でも挨拶は基本だと言い切ります。好き嫌いに関わらず、社会の中では挨拶すべきだという論理です。もちろんいやでした。したくなかったし、挨拶したくない人はいたらいけないのかと腹立たしく思ってもいました。

今は一応作業所の玄関先で声を上げておはようございますと言います。それは、挨拶すべきだという慣習に従ったというよりは、相手に挨拶されてからじゃないとこちらから挨拶しないのは、高慢で偉そうに思われるのではないかという不安からでした。

この、朝のおはようございますと言っておはようございますと挨拶をする、この一連のルーティンワークは何とかならないかと今でも思います。何だか自分から仲良くしてねとごまを擦ってふれ込んで回るような感じ。我慢して耐えるのがつらいです。

でも、こんな風に挨拶が苦手なせいか、人に距離を置かれることはしばしば。私が今いる作業所をやめた元メンバーでさえ、私を見たら道を変えたり無視して遠ざかる人が何人かいます。そういえば地域活動支援センターでもこういう人が何人か。

何か嫌がることをしたというわけでもないと思います。単純に出会ったときの雰囲気の悪さで、近づきたくない人とか、会いたくない人とか、そういった方向に分類されることが多いようです。

私もわざわざ好かれようと心を開いて声をかけに行くことなんてしないので、どんどん距離は開いていき、やがては顔を見かけただけで嫌がられます。

前にも書きましたが、私には心理学の基本的信頼感と呼ぶものがあまりありません。他人は自分のことを悪く思っているという猜疑心が前提なので、他人に心を開く前に疑ってかかってしまいます。

逃げられることは仕方がないことだと諦めています。こちらも出会ってあまり嬉しいと思わないので、そういった雰囲気も向こうに伝わって空気は最悪になります。

私は人に好かれない、というのはほぼ真実となっています。

じゃあ挨拶もしないし人に嫌われるのなら、友達もしゃべる人もいなくて寂しいね。と思いきや。世の中にはこういった「壁を作った人」の壁を苦もなく乗り越えてくる人がいて。毎日ほとんど必ず話しかけてくる人、相手をしてくれる人というのがいて。

おかげで作業所では孤独にならずにすんでいます。まあ孤独でもひとりでいられるので別に構いませんけど。こういった人のおかげで人生が豊かになったのは確か。作業所の中だけですけどね。

ありがたいことです。

処罰感情

前回は「告白」という湊かなえ原作の映画のことを書きました。あれも一応自分の正直な気持ちですが。今回はそれと矛盾することを書きます。

映画の内容について、私は精神を追い詰める人は残虐だと書きました。人に苦痛を与えることは、それ自体悪のような気がしていたからです。でも、これにも抜け道が存在することに最近ようやく気付きました。

悪いことをする人は、罰を受けるべきだという気持ちが心の中に確かにあるのです。政治的なことで言うなら、北朝鮮金正恩は死んだらいいのにと思いますし、ジャーナリストを暗殺させた疑いのあるプーチンなどは同じように殺されればいいと思います。

もっと身近なところでは、例えば犯罪を犯した人が厳重に処罰されるのは当然のことだと思います。そうでなければ怒りますし、声を上げて批判したくなります。Twitterなどで悪いことをしている人へのバッシングが上がるのは日常茶飯事ですし。

例えば無茶な運転をしている車に衝突されてそのまま逃げられたら。何の関係もないのにナイフで刺されたら。ただ通りすがっただけで金品を奪われたりしたら。

相手にも事情があったんだよねとはほとんど考えません。その人の事情なんか他の人には関係がないし、謝ってすまされるぐらいなら、同じぐらいひどい目に合わせてやりたいしそうなるべきだとも思います。

でも、その処罰感情が行き過ぎるとどうなるか。例えば金正恩が捕らえられ、ネットで公開銃殺刑になったとしたらどうでしょうか。悲鳴や怒号の上がる暴力のむごいシーンを目の当たりにして、本当にそうなるべきだと言えるでしょうか。

告白という映画に戻ると、処罰感情が絶対に正しいなら、復讐も正しいことになります。娘を理不尽に奪われたのですから、相手の少年を追い詰めて殺すことも正しいということになります。

そう思うと、罰せられるべきという感情と、実際の罰とはどのぐらいのバランスを持つべきなのか。考えるほど分からなくなってきました。

死んだらいいのにとよく思ったりしますが、実際にその人の命が消えようとしている場面に遭遇して、さあ死ねすぐ死ねとけしかけるようなことはとてもできそうにありません。命を消す残虐さに震えるだけです。

ただ、でも罰を逃れて平然としている人はいるわけで。その人たちは何の痛みも感じなくていいのかと思うと、ひどい目にあったってその人が悪いんでしょと思いたくもなります。

結論は──とても出ません。分かりません。

正義感からか、ニュースで悪いことをしている人を見るとカッと頭に血が上ります。傍から見ているだけなので、ケシカランと言って憤慨していても何も問題ありませんが。

当事者になったとき、処罰感情が暴走して相手を無情なまでに追い詰めるのか、それとも相手の人間性を尊重して空しく諦めようとするのか。本当に難しいことだと思います。

私も「他人を精神的に追い詰める残虐な人」の一人。罰したい気持ちがあらゆる面で一線を越えないことを祈るばかりです。