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A leaf in a bottle

とある精神疾患者の日常

告白という映画

先日NHK-BSプレミアムで「告白」という映画を見ました。湊かなえの小説が原作で、松たか子が主演の映画です。湊かなえはメディア等の評判で結構怖いという話を聞いていたので、見るかどうかためらいましたが、結局最後まで見てしまいました。

感想を端的に書くと、「全員むごい」です。自分たちの勝手な主義・主張のために、罪もない子を手にかけた生徒2人。自分の子供の悪い部分を見ることを拒否し、我が子を刺した母親、執拗ないじめを繰り返したクラスの生徒たち、何の事情も知らずに勝手な理想論で自己満足に走った教師、その教師に責任を全てなすりつけた女子生徒。

そして、我が子を殺された復習に家庭や人間関係を崩壊に追い込み、憎しみ合うように他人を操作した女性教師──松たか子さんが演じた森口という女性教師のことです。

全てがドス黒い雰囲気に憑りつかれていたような、救いのない物語でした。もちろん、冷静に考えると、ここまでの惨状が繰り広げられるというのはおかしな話で、松たか子さんも警察に捕まりそうなものなのですが。

物語の雰囲気が、全て順調に運んでしまったということを違和感のないように感じさせてしまいます。

私がこの物語で見たのは、「子どもの残虐性や、表に出てこない悪意を、まるで見ようとしない大人たち」でした。森口という女性教師の娘を殺害した生徒2人の残虐さ悪意に、教師や親は誰も気が付きませんでした。

途中で森口の子どもを殺害した生徒2人は、それぞれ近しい関係の人を1人、殺害しています。

この映画では少年法によって守られるということに対してかなり鋭い皮肉を込めて描かれています。反省の作文を書けばそれですんでしまうと劇中のセリフがあります。一度本人が地獄に落ちてからが本当の更生だ、という風にも感じる強烈なラストに、何がいいのか悪いのか、複雑な気持ちになりました。

気持ちは何だか分かりそうな気がします。自分の子どもを殺されたら、怒らないわけにはいきません。でも、他人に精神的に強烈な恐怖や圧迫を与えることは、じゃあ許されるのかと考えると、そうだとは私には簡単に言えません。

家庭を崩壊させて親が子を、子が親を包丁で刺すような状態を作ったり、クラスの生徒がいじめをするような状態を作ったり。血が飛び散るような凄惨な光景を目の当たりにすると、一番むごいのは森口だと思えてなりません。

ついでに言うと、森口は直接関係ない教師を操作して、彼の教師人生を再生することもできないほど粉々に叩き壊しました。無関係な人間を巻き込んだわけです。少年が作った爆弾を母親のところに移動させたりもしました。彼女の復讐のために。

心を追い詰めることを意図的にする人間は、とても残虐な人だ。精神的に追い詰められたことのある私は、そう感じます。

あるいは森口自身も誰かによって止められなければいけなかったかもしれない。そこには、狂気に取り込まれた、精神を病んだ姿が垣間見られます。

したいこと、生きること

雑記

この頃、年齢も30代後半にさしかかり、時々自分自身の希望の持てない人生について考えることが増えてきました。30代後半は平均年齢から考えても、もう半分過ぎてしまったのだと。

早く終わった方がいいと思いながら、一方でこのまま終わるのが無性につらくて。最近はなるべく、未来の不安より、過去の後悔より、今現在を一生懸命より良く生きることを中心に考えていますが。ふと立ち止まると、どんどんいろんなものがなくなっていきつつあることに言いようのない恐怖を感じます。

何を選ぶこともありませんでしたが、実は何も選ばないという選択肢を選び、ここまできてしまいました。

両親が死んでしまったらどうしよう。他の人にかわいがられない自分は生活保護も認められずに飢え死にするのではと、ないようでありそうな可能性に震えます。考えたら、社会人として働いたことはほとんどありません。

こういう自分を生かしていく方法を全く考えてきませんでした。精神科に通っている今もこういった状況は変わっていません。

他の人は生きていくために、勉強したり人脈を作ったり能力を高めたり、いろいろしているのに。私はどれもしてきませんでした。生きられる努力なんかしたくなかった。

今は社会のセーフティーネットに何とか助けられています。作業所に通うことで自分の居場所を作ることができたり。かりそめのものかもしれませんが。

死ぬまでにどうやって生きていくかというプランはもちろんありません。働く場所も見つけられないかもしれないし、他の人とつながることもできないかもしれないし、能力も知力も悲しいほど役に立たないかもしれません。

ただ、精神の病気になって死にましたではあまりにもつまらないので。自分がしたいことがないかなとか、楽しいこと、おいしいこと、いろいろ体験してからにしたいなという願望が湧いてきました。

だからといってそんなに金があるわけでもないので、楽しめることはそう多くはありませんが。時間はどんどんなくなっていってしまうので、生涯たった一人だとしても、自分を捨てないでいられる人生になってほしいと思います。

まあ、生きるためには働く必要があって、望む望まないにかかわらず、就労にはいずれ踏み込まないといけませんが。働くことの意味とか、生きるために働くことをどう自分のために結び付けていくかとか、難しいことは山のようにありますが。

おかまと言われて、男女の世界から出なければいけなかった私の人生。私は私のまま、性マイノリティーを飾らずに生きていって、なるべく喜んで生きられたら。

そうなったらいいなぁ。

そうなってほしい、と思います。かなうかかなわないかは、もうちょっと先の話。

ガサガサ

雑記

この時期になると、いっつもいっつも気になること。

━━手荒れ。

冬になると、手の皮脂が少なくなるのか、手がささくれてきます。その予防に結構必死にハンドクリームを塗っているのですが。手洗いの頻度が高くなると、どうしても手がガサガサになってきます。

強迫性障害があります。何か汚いものが手につくと、そのまま他の物に触るのが気になって手を洗ってしまいます。これはこれで、潔癖症と割り切ってしまえばそんなにたいそうなことでもないのですが。

ただ、ここに調理の作業が入ってくると事情が変わります。調理では手の清潔が絶対条件ですので、しっかりと手を洗わずにはいられません。そして、手の清潔さを保つためには、ばい菌がついているものに触れられませんし、触れたが最後、手を洗わなくてはいけなくなります。

これが意外と厄介。ドアノブを触る、手を洗う、棚を開ける、手を洗う、台ふきんも食品を触るときに不安なので、触ったら手を洗う、などなど。ドアノブはティッシュペーパーの上から触るとか、なるべく手を洗う回数を減らしてはいますが、それでもかなり神経質になるのは確か。

以前は冬になるとほぼ例外なく手のパックリ割れを起こし、頻繁に割れ目から血が出てくるというひどい有様でした。今年は気が付いたらすぐにハンドクリームで保護しているので、まだパックリ割れは起きていません。ただ、手がカサカサになって赤くなったりかゆみが出たりするのは避けられず。手を洗うこともほどほどにしたいのに、調理での清潔さを完璧にしようとして、手が犠牲になります。

他の人がどうかは以前記事で書きました。あまりにも無頓着でこちらがイライラします。

ばい菌というのは目に見えないので、ついているかついていないか分かりません。でももしついていないと思ってついていたら大変だと思って、いつもいつもばい菌がついているという前提に立って手を洗います。手を洗わずに素手でお菓子を口に入れる人を見ると、とてもシンジラレナイ。

ばい菌が……ついてます……ばい菌……。

これでも一応手を洗うことへの工夫はしました。毎回石鹸で洗うと皮脂がごっそり落ちてしまうので、なるべく水や湯だけで少し長めに手もみ洗いする、とか。これだけでもかなり菌が減ると信じてなるべくそうしてます。本当は石鹸で洗いたいけど。

これも、便や汚物になるともうだめ。石鹸をつけることは絶対に譲れなくなります。

結局そんなこんなで一年中ハンドクリームつけてますよ。私。

手荒れが一生の友達なんて。なんかヤだなぁ。

福祉ってどんなものか

雑記

ある内職をやっていたときのことです。知的障がいがあるM哲という男性が内職を始めようとしました。その内職はある紙の枚数を何十枚か数えることから始まります。M哲はいつもと同じように数え始めました。でも、実は彼にとって、数えることはとても苦労することのひとつです。

彼は一応物を数えることはできますが、よく間違えます。数の数え方をきちんと教わることができなかったのかもしれません。他の人と同じようにやろうとしますが、結構な確率で数を飛ばしたり、数え間違えます。お金の計算もそうです。桁の概念もあやふやなので、500を50と言ったりすることもよくあります。

今日はその内職でM哲の不正が発覚し、スタッフに大分怒られていました。紙の枚数を数えたかと聞かれ、数えたと嘘をついたのです。でもすぐ間近にいたスタッフをだますことができず、お説教となってしまったのでした。

でもこの内職で怒られることになったのは、割と最近になってから。それまでは紙の枚数ではなく、別の分厚い冊子のほうを数えていたため、割と数えやすかったこと。そして。多分誰も数えたかどうか詰問しなかったため、数える工程をこっそり省略していたのだと思います。数えていたら数が合わずに何度も数え直すはずですから。

M哲は何度も怒られながら、何回も紙の枚数を数えていました。そして何度も間違えていました。紙の枚数を数えることも仕事に入っているとスタッフはM哲を責め立てます。M哲は作業工賃がちょっとでも欲しいので、早くやりたいのになかなか進まず、苛立っていたのではと思います。

この状況を内職をしながら聞いていました。確かに、数えることも仕事のうちです。他の人が面倒でも数えているのに、ひとりだけ数えないというのでは公平ではありません。

でも。本人のプライドをねじ曲げるような形で、その人が不得意なことを厳しく追及し、きちんとできないと許さないというのが少し引っかかりました。同情したわけではありません。私はM哲が嫌いですし、彼が守銭奴みたいに工賃に固執するのをうっとうしく思っていました。

ただ、こんな風に他の人がいるところで、できないことをことさら怒られなければいけないものだろうか、と思いました。彼が数えられないことは、しばらく見ていればすぐに分かるはずです。その苦手に真っ向から向かい合わせて逃げることを許さないのは、福祉のすることだろうか、と。

福祉って、できないことを認めてくれるものじゃないのだろうか。いたずらに苦しめることは、その人の尊厳を踏みにじっていることにはならないか。

親が子どもに苦手を克服するために鬼になるというのは、まあ分かります。でも、福祉施設の職員は親の代わりではないし、またその必要もないはず。数えるのが苦手なら、別の形でその人がやりやすいように支援できないものなんだろうか。

やみくもに間違えたらダメだと目を吊り上げるより、ここまで数えられましたねと言って、不必要な罪悪感を与えるでもなく、プライドをへし折るでもなく、その人が今できることを大事にしてあげてほしい。

━━と、頭の隅でそんなことが思い浮かびました。

利用者を尊ぶ気持ちが欠けているような。そういう違和感がありました。

謹賀新年

つぶやき

明けましておめでとうございます。

2017年になりましたね。

またひとつ歳をとるので、この歳になるとあんまり嬉しくない……。

 

今年は精神障がい者3級の手帳の申請をするつもりでいます。

親も高齢になってきたので、私がある程度収入があった方がいいでしょうし。

就労移行支援にチャレンジするか、あるいは就労継続支援A型の作業所に行くとか。

もう障がい者として就労する方向でいます。健常者としてでは雇ってもらえないでしょうから。

あぁ、とうとう自分が望んでいない仕事を、死ぬまで続けることになるのか……。

生活するためだけに。

B型作業所にずっといられるなら、それでよかったのに。

 

休所中の間に自分の顔を鏡で見て、気持ち悪いということを改めて感じて落ち込みました。

こういう人間が生きていくにはどうしたらいいんだろう。

 

暗い気持ちでの新年スタートとなりました。

とりあえず最初の第一歩。

良いお年を

つぶやき

27日は更新が難しそうなので、年内の更新は今日で最後にします。

どうぞ良いお年をお迎えください。

それでは、また2017年に。

優劣をつけるクセ

雑記

私には他の人と比較してしまう癖があります。他の人が褒められていると、その点と自分の能力とを比較して。自分の方が優れていると思うときは少しは落ち着いていられるのですが。自分の方が劣っていると思うときは、自分の方が上でないことを、いつまでも妬んでうらやましがって失望して落ち込んで。

人にはそれぞれ長所や短所があるもので、ひとりの人間が全てできることなどないというのに。他の人が目立っていると、自分の方ができるのにとか心の中で思うことがありますし、逆立ちしてもかないそうにないときは相手の人間性を批判して粗探しをしたりします。

自分の方が優れていないと優越感に浸れませんし、劣っている方に置かれると、居場所や人気を奪われたような気になって、とても孤独を感じます。私にとって自分が優れているということは、自分が目立ってスポットライトを浴びるためには大事なことで。

他の人が自分を脅かさないか、密かに探っている自分というのは、あまり好きにはなれません。いつもそういったことで他人と競争をしているような気がして、段々と自分にできないことが積み重なってくると、耐えられなくなってどこかに引きこもりたくなります。

私が私のままで受け容れられたという経験がほとんどないからでしょうか。付き合うのに何かメリットがあることを示さないと、誰も自分の方を向いてはくれないような気がするんです。

ある場面では他人が主役で、時には自分が主役になる。そういうことは人生では普通のことなのでしょうが。私は自分が目立つということにかなりこだわっていて、優れているということにとても神経質で、負けたくないと結構張り合っています。

友達がいませんでしたので、他の人の優れた世界というのを知らずに生きてきました。そういう意味でも、他人が優れていることを心から喜べませんし、何より我慢できません。

そこには自分の居場所を奪わないでとか、自分の方を見てという切実な願望が垣間見えます。

そこまで分かっていても、なかなかこの癖は消えません。気づいたら他人に勝った負けたの勝ち負け思考になっていますし、そこには優劣をつける癖が出ています。今の私は過去の私より多少はマシだと思いはしても、満足したと感じられないからです。

こうしていつまでも優劣を追い求めても、あとに残るものは何もないでしょうね。一時的な自己満足以上のものは手に入りません。自分にとって何が大事なのかも分からないなんて。

私という人間の色は、他人のいろんな色をやたら真似してゴチャゴチャで意味不明。自分の輪郭も自分がよく分かっていないという有様。

社会は優劣主義だから、そこに入るためには優劣に敏感なのは仕方がないかもしれませんが。私の場合は病的に過敏になってしまいました。

時には社会から切り離された私を眺めることも必要みたいです。