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A leaf in a bottle

とある精神疾患者の日常

多面性を持つ私

私は場所ごとに違う顔を持っています。作業所では割と優等生タイプ。スタッフやメンバーに多少頼られるところもあります。パソコンをよく触っているので、IT関係で意見を求められることも。スタッフの雑用を代わりにすることも時々あります。支援員としてではなく、単に気が向いたらボランティアするという感じでしょうか。ここでは結構冗談を言ったり、よくしゃべります。

一方、地域活動支援センター(以下、地活と略)ではほとんど寄合に集まるお客さんという感じ。話しかけられることもありますが、そういったことは珍しい方。大抵はひとりで音楽を聞いたりパズルを解いたりしています。一応好きでその寄合に参加していますが、その他は全く興味なし。人間関係もほとんどシャットアウトしてあまり踏み込ませません。話しかけられたら発言しますが、会話が続くことはあまりありません。

そして。通院している精神科ではどうかというと。まるでスイッチが切れたかのようにぼーっとしています。他人としゃべろうとか、他の人に意識を向けることはほぼありません。むしろ誰かが大きめの声でしゃべっていて会話が聞こえてくるとうるさくてイライラします。

精神科医の前でもこんな感じ。どうですかと聞かれるまで何もしゃべりません。かばんを膝の上に乗せてじっとしています。なんというか、その間は何かに意識が向いていないような状態。自分のことを聞かれますが、記憶の情報を伝えるのみで、感情があまり鮮明に言葉に乗っていない気がします。

複数の場所での「私」を知るひとからは、二重人格みたいと言われることもあります。それほど違う場所での「私」は雰囲気が違うのです。作業所での私を知る人は、地活での私を陰気に感じて驚きます。挨拶もほとんど会釈のみで明るく振る舞うことがありません。精神科ではそれがさらに鬱めいた印象にまで悪くなります。

どうして複数の場所での「私」が一貫して同じにならないのか、自分ではあまり意識したことはありません。でも、その場所によって心を許せる人がいるかいないか変わってくるというのはあります。そして、自分に役割が与えられているかも重要な要素です。作業所ではある程度支援者寄りの役割がありますが、地活ではあまりありません。そして精神科ではゼロになるのです。

役割を持たない「私」はほぼゼロで存在しないようなもの。自己もゼロの立場になるのか、あまり患者としての「私」がくっきり輪郭を持ちません。適応の仕方に何か問題があるのかもしれません。私は今のところ明るい面もあり、暗い面もあり。でもひとつの場所で両方というのはあまりないような気がします。

私の一元的な姿を知っているのは、今のところ心理士の先生のみ。その他の人はある角度から見た「私」しか知らないと思います。これを利用して、各場所で過ごしやすいようにいろんな「私」を使い分けています。