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A leaf in a bottle

とある精神疾患者の日常

恐れたカリスマ先生

雑記

 かなり前のことですが、テレビで引きこもりをテーマにしたドキュメンタリー番組が存在しました。それは引きこもりの若者のことを報道してはいましたが、どちらかというと、引きこもった若者を、とあるカリスマ人生塾長が強制的に外に連れ出すという印象の強いものでした。

私はその番組を見たとき、こういったカリスマ先生が家に来たらどうしようと不安にかられて仕方ありませんでした。親にその不安を打ち明けても、そうならないように自分で働けるようになりなさいと言われ、外に出たくない葛藤と恐れとでひたすら動揺していました。

当時どんな恐怖に震えていたのか、今でも記憶が残っています。私はカリスマ先生が私の世界を打ち壊していくのが怖かったです。私が大切だと思っているものを全て踏みつけて壊していき、この先どう生きていくんだ! と現実を目の前に突き付けられることが恐怖でした。

カリスマ先生に恫喝されたら、私はきっと自分自身がへし折れていたでしょう。反論することもできなかったし、きっと反発することさえ満足にできなかったと思います。そうして、いつまでも甘えるなという風に言われ、従わざるを得なかったでしょう。

番組ではこういった感じで、引きこもりの若者たちが人生をやり直していくという風になっていました。そういった若者たちが幸せなのか分かりませんでしたが。引きこもりは惰性なので、強制的に環境を変えるというやり方で、新しい惰性を作ってしまうというのも方法としてはありなのだと思います。

でも、私はこのやり方は嫌だと思っていました。このカリスマ先生が土足で踏み込んできたときに、考慮されずに壊されるものがあって。それはその人を形作る一部なんじゃないかと思えたのです。

カリスマ先生はその人の一部を真っ向否定し、力関係で押さえつけてから本人の論理を解体し矯正させる。言ってみれば人間関係や立場を利用した洗脳の前段階のように思えました。

私がカウンセリングという存在を知り、そちらに傾倒したのも、ある意味このカリスマ先生の存在から逃れるためでした。確かに、カリスマ先生よりかは私が大切にしている私の世界を認め、共感してくれそうなカウンセラーなら安心ができました。

今はこういった番組はほとんど消えたため、今の私ならどうかということは考えなくなりました。ただ、私はカウンセリングを選んで一応後悔はしていません。カリスマ先生によって外には出られたかもしれませんが、性的マイノリティーやそれによる自己アイデンティティーの脆弱さとか、他者から侮蔑されるつらさは変わらず持っていなければならず、いつか精神を病んだであろうことは想像に難くないからです。

精神の病を抱えた今、私はカリスマ先生の方法論を受け容れることはできません。自分自身がストレスに耐えられないと思います。私は精神障がいによってカリスマ先生から守られ、同時に精神障がいによって、カリスマ先生には見捨てられる存在になりました。

引きこもりの若者たちはカリスマ先生に家から連れ出され、幸せになったでしょうか。今の私が不幸でも幸せでもあるように、彼らもまた幸せでもあり不幸でもあるかもしれません。