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A leaf in a bottle

とある精神疾患者の日常

処罰感情

前回は「告白」という湊かなえ原作の映画のことを書きました。あれも一応自分の正直な気持ちですが。今回はそれと矛盾することを書きます。

映画の内容について、私は精神を追い詰める人は残虐だと書きました。人に苦痛を与えることは、それ自体悪のような気がしていたからです。でも、これにも抜け道が存在することに最近ようやく気付きました。

悪いことをする人は、罰を受けるべきだという気持ちが心の中に確かにあるのです。政治的なことで言うなら、北朝鮮金正恩は死んだらいいのにと思いますし、ジャーナリストを暗殺させた疑いのあるプーチンなどは同じように殺されればいいと思います。

もっと身近なところでは、例えば犯罪を犯した人が厳重に処罰されるのは当然のことだと思います。そうでなければ怒りますし、声を上げて批判したくなります。Twitterなどで悪いことをしている人へのバッシングが上がるのは日常茶飯事ですし。

例えば無茶な運転をしている車に衝突されてそのまま逃げられたら。何の関係もないのにナイフで刺されたら。ただ通りすがっただけで金品を奪われたりしたら。

相手にも事情があったんだよねとはほとんど考えません。その人の事情なんか他の人には関係がないし、謝ってすまされるぐらいなら、同じぐらいひどい目に合わせてやりたいしそうなるべきだとも思います。

でも、その処罰感情が行き過ぎるとどうなるか。例えば金正恩が捕らえられ、ネットで公開銃殺刑になったとしたらどうでしょうか。悲鳴や怒号の上がる暴力のむごいシーンを目の当たりにして、本当にそうなるべきだと言えるでしょうか。

告白という映画に戻ると、処罰感情が絶対に正しいなら、復讐も正しいことになります。娘を理不尽に奪われたのですから、相手の少年を追い詰めて殺すことも正しいということになります。

そう思うと、罰せられるべきという感情と、実際の罰とはどのぐらいのバランスを持つべきなのか。考えるほど分からなくなってきました。

死んだらいいのにとよく思ったりしますが、実際にその人の命が消えようとしている場面に遭遇して、さあ死ねすぐ死ねとけしかけるようなことはとてもできそうにありません。命を消す残虐さに震えるだけです。

ただ、でも罰を逃れて平然としている人はいるわけで。その人たちは何の痛みも感じなくていいのかと思うと、ひどい目にあったってその人が悪いんでしょと思いたくもなります。

結論は──とても出ません。分かりません。

正義感からか、ニュースで悪いことをしている人を見るとカッと頭に血が上ります。傍から見ているだけなので、ケシカランと言って憤慨していても何も問題ありませんが。

当事者になったとき、処罰感情が暴走して相手を無情なまでに追い詰めるのか、それとも相手の人間性を尊重して空しく諦めようとするのか。本当に難しいことだと思います。

私も「他人を精神的に追い詰める残虐な人」の一人。罰したい気持ちがあらゆる面で一線を越えないことを祈るばかりです。